2002年4月、晴れて迎えた新社会人一年目、新人研修を経てひまわり証券本店へ配属された。
当時は会社全体で70人強という新卒採用をしており、主軸の商品先物取引は小さな証拠金で何倍もの取引ができるハイリスクハイリターンの金融商品で、貴金属や穀物、エネルギーなどの相場価格の行方が投資家の思惑と当たれば大きな利益を得ることができるが、その逆に外れると大きな損失や預け入れた証拠金以上に損失を被ることもあるという投機的取引である。業界の同業社も数百社は存在し、上場している会社も少なくなかった。今では考えられないほど商品先物業界の市場は肥沃だったのである。

そんな業界事情は社会に出て右も左も分からない学生に毛の生えたような私が知る由もなかったが、入社歓迎会の上司の羽振りの良さはこれぞ社会人というようなイケイケの状態で、営業の武勇伝を聞くのも新人の我々には仕事の一つのようなものであった。社会人経験のない私は彼らを羨望の眼差しで見つめ、1人々がとても尊敬できる人たちであると感じていた。しかし実際に机を与えられ個々の席へ配属された時、オフィスの雰囲気が異様なものであることに気付く。

先輩社員全員が休むことなくセールスの電話をかけているのだ、本当に絶え間なく、断られても次から次へと・・・。これってよく自宅にもかかってきていたセールスの電話だ、そのたびに母親が不機嫌に時には強い口調で受話器を叩き切る、あの相手を自分もこれからやるのか。内容は投資だからそうすぐに新規獲得に繋がることは難しいだろう、精神的にもタフさが要求されるだろうな。しかしここにいる全員がその営業活動をしているのだし、それで仕事が成り立っているのであれば数をこなせばそのうち取れるものなのだろうと、やや不安はあったが会社のやり方に従うことに全く疑問も抱かずに外務員資格を取得した翌日から商品先物取引の勧誘電話営業が開始された。

しかしその不安を間に受けたのであろう同期の1人は仕事始めを前にして辞めていった。仕事始め初日にも妙に気になることがあった。同期のやや内気な男子社員が青ざめながら唖然として受話器をスローモーションのように置いて、深く考え込んでいたのをとてもよく覚えている。彼もその日、会社を辞めた。早すぎる退社に笑い話のように話されていたが私は単に根性の無いやつらだと思い自分はそんな腑抜けではないと大変な電話営業だったが毎日それが当然のように社内での仕事として取り組んでいた。

電話営業を開始してからすぐに外回りの営業も始めることになった、同期の社員数名とその課長、係長がつき社外へ繰り出した。そう、飛び込み営業である。しかも銀座4丁目で。ビルの最上階から下階まで会社の事務所に飛び込んで、まずはアンケートを取得するというものだった。口実は新人社員研修で来月の金価格をクイズで当てると純金がプレゼントされますという内容をアンケート形式で個人情報を尋ねるというものだった。個人情報保護の意識が強い現在では考えられないことだが当時はそのような意識は希薄で、その後に営業に来られるのが嫌で記入してくれない人は多かったが、それでも中には名刺交換をしてくれ新入社員である私を不憫に思ってかアンケートに答えてくれる方も何人かはいた。というよりそれが仕事だったので最初は地道に無数とある会社事務所に飛び込んでいた。

「この度、銀座4丁目を担当になりました!ひまわり証券の佐藤と申します!」

勝手に担当になってアポなしに挨拶に来られても相手様は仕事を中断して対応しなければならず、すこぶる面倒であるのは容易に想像がつくが、そんなことはお構いなしに次から次へ、隅から隅まで隅々と会社訪問していった。

生まれて初めて飛び込んだ時は大変緊張し、それこそ新入生の自己紹介のような初々しくも怪しい訪問者だったであろうが数をこなしていくと初対面の人に会うと自然と笑顔が条件反射のように出てきて挨拶、自己紹介をするという習慣がついていた。これは良いことだったが受付で対応する人や運よく対象者と出会えても警戒され怪しまれるという印象は当たり前だが最後まで払拭できることはなかった。しかし当時の私は金価格が上がるので投資しましょうという絶対的な自信があったので、なぜこんなことが理解できずに害虫を見るような目で拒絶するのかと世間の人々を不思議にそして不満に思っていた。

飛び込み営業も開始数日後にまた同期の1人が辞めていった。仕事開始数日で3人が辞めるというのは異常なのかもしれないが、辞めていった連中は申し訳ないがはっきりいって見るからに仕事ができるような器ではない者たちであったので特に気にしてはいなかった。

来る日も来る日も毎日午前は椅子に座らず立って電話セールス、そして昼食を挟んで午後は飛び込み営業へ出かけるという業務であった。しかも埼玉の実家から浜松町のある会社へ片道1時間半かけて午前7時半までに出社しなければならない。終業も21時より早いということは無かったので睡眠時間は4時間ほどであった。したがって電話セールスは眠気との闘いであり、午前をやり過ごせば飛び込みで外へ出てどこかのビルの踊り場や屋上などで仮眠を取るということをしていた。それでも晴れている日は上司の目の届かない社外に出られるからいいが、雨の日や仕事をおろそかにして目をつけられたりすると午後もぶっ通しで電話セールスが命じられることもあった。まさに一日中電話セールスで300~400件は掛け続けるのである、発狂寸前の朦朧状態になり最後は憔悴しきって訳が分からなくなる。

それだけ掛け続けても最終的な契約締結はおろか、アポイントすら全く取れる気配がなった。毎日々掛け続けては迷惑がられ、怒鳴られ、時には会社名を名乗っただけで無言でガチャ切りされるということを繰り返した。投資を手がけてくれそうな可能性のある人を何人かは必ず見込み客として報告しなければならないのだが、どれだけ電話をしても飛び込みを続けてもそんな人は皆無なのだ。

仕方ないから名刺をもらった人や投資経験者と聞いたら全員見込み客にしていた。そして上司に報告義務があるので「投資は絶対やらない!」といっている方にも関わらず、その見込み客に毎日のように電話をかけ続けた。当然相手は怒り、見込み客どころではないのだが上司にはしっかり開拓していないと怒られ、板ばさみにあいながら追い詰められる日々であった。

学生から新社会人になり、夢と希望を持って羽ばたいたはずだった現実は180度違っていた。青年男子たるものそれなりにプライドはある。しかし社会でどれほど自分が通用するか、そして自分がこの会社で一番になってやるぞと意気込んで鼻息を荒く船出したにも関わらず、蓋を開けてみれば唯一の仕事である新規獲得が全くできないのである。どうりですんなりと内定が獲れたわけだ。学歴もスペックも関係ない人海戦術要因だったのかもしれない。

朝から晩まで新規獲得するために苦労して仕事をしているのに、一件も獲得できそうな気配がない。トップ営業マンなど夢のまた夢。今からミュージシャンになるほうが簡単なのではないだろうかと思うほどお先真っ暗な状態であった。同期では女子社員が二人いてそれぞれ大きな顧客を何件か上げており所属課のエースになっていたが、対照的に同期男子は私を含め全くうだつが上がらない状況で、胸の内では他の同期が契約獲得をしないように祈る思いであった。

私のプライドは踏みにじられ地に落ちていた。そればかりか、はじめはかなり抵抗があった営業中に同僚のサボりの誘いに乗り、カフェや漫画喫茶などに出入りするようになり、会社や上司に嘘の報告をするのが段々と日常的になっていった。良心が咎める思いはさすがに消えなかったが、どうせ飛び込んでもアンケートさえロクに獲得できないのだから自分には最終的に契約までこぎつける力はない、顧客に成りうるそんな奇特な人と出会う可能性を想像することも出来なかった。

完全に腐っていた。結局無駄な苦労、時間を過ごすのであれば同じ境遇の仲間と過ごしていればたとえ見つかりばれたりしても目玉を食らうのは自分ひとりだけでないと、臆病者のささやかな安心感を拠り所としていた。毎月一件も上げられずに毎回同じ営業目標を上司に提出するあの虚しさと情けなさは、人生で初めて味わった屈辱の期間だった。

外回りでは、営業マンというよりは徘徊者という状態だが、営業先の銀座は言わずと知れた日本一の華やかさと高級感が漂っていた。訪問企業のターゲットである経営者に何とかして面会にこぎつけ会うことが出来ることもあった。彼らは何人、何十人と従業員を従えて企業を経営し、時には長者番付などにも載っているいわゆる大社長と言われる方を見ることもあり、社会に出たころの私には資産家でありおそらく間違いなくの金持ちという身分の人を前にして初めてそのような人物に出会い、見かけたという程度の接点であっても憧れ、畏敬の念を抱き、雲の上の存在のように感じていた。

社会に入るまで、「金持ち」や「社長」といわれる人間に出くわしたことも意識もしていなかったため、お金持ちになりたいと漠然とすべての人間が抱くその地位を得ている希少な彼らの存在に触れることで、お金を得たいと勉強はしていたにも関わらず実際の本人達を前にしてまさに経済的成功を手にした彼らは不老不死をも享受したかのような英雄のように神々しく私の目には映った。そのような猛者たちが点在している東京のダイナミックさや行き交う最新の高級外車に乗っている人々からは尋常ではない金満の雰囲気を感じることはあっても、これだけ絶望的に銀座の路上を歩いている人間は自分くらいだろうと場違いで無能な田舎者であることを誰にも知られたくない思いであった。

それでも本格的なヤクザの任侠事務所に飛び込んでしまい、なぜか気に入られて何度か通ううちにやけくそな気持ちで商談をしたこともあった。そんな案件は絶対に避けるべきだとは若いなりにも自覚はしていたが何とか新規契約を獲得しなければならないという切迫感があった。幸か不幸か契約に至ることはなかったが、八丁堀でもセールスお断りを無視してしつこくビルオーナーに迫ったら腕をつかまれ本当に警察を呼ばれたこともあった。警察官もいちいち事件にすることもなく、身分を確認して事なきを得たのだが、社内でもそれだけ根性があると少しいい意味で評判になったこともあった。

まだモチベーションがあったころの出来事であったので、自分でも警察を呼ばれたというちょっとした武勇伝ができたとほくそ笑んでいた。しかし今思えば、警察を呼ばれるほど嫌われる訪問者であった自分を省みることをせず、何がいけないのか、なぜそれほどまで嫌われるのかという疑問を持たずにただ闇雲にこちらの主張を投げかけていた典型的なダメ営業マンだったように思える。会社の知名度も低く、風貌たるや学生風情にスーツを着たどこの馬の骨とも分からない怪しい営業マンに、初対面の人が抱くイメージというものを慮ることすら考え付かなかったのだ。

相手の金欲をくすぐり、理屈を通し、説得し、しつこく食らいさがれば相手が落ちるということを信じていた。会社からもそう教わっていた、現にそのスタイルで今まで活躍してきた上司が言うのだから間違いがないと思っていた。そう、私はビジネスに不可欠な「信用」という概念を持っていなかったのである。当然かもしれない、新卒で今までの人生ではビジネスをすることや、相手と取引するという経験が無かったのだから。本当に必要なものが何か分からなかったのである。

金融商品の営業、中でも商品先物取引は偏見やイメージも相まって最も難しい部類に入る。アルバイトで時間を切り売りすることくらいでしかお金を稼いだことがない私に、顧客満足やニーズ、ウォンツという概念が無かったのは致し方ないかもしれない。ましてやリスクが高く損することも大いにあり得る取引を全く人生経験の無い、ただでさえ年齢よりも若く見られる22歳の自分が、初対面の海千山千、百戦錬磨の経営者や資産家に、会社から儲かりそうではあるということ自体は教わっていても自分で実践したこともないような投資商品を勧めるのははっきりいって無理があった。

それでも全社的に見れば同期の中に営業で芽を出す者がいることは認める。ただ、人間には適性というものがあるし、根性論で片付けようという乱暴な理論は通用しないことが多々あると今なら若き日の自分に教えてやりたい。

元来、体育会系の精神や資本主義といった弱肉強食を肯定するような思考を備えていた当時の私は、信賞必罰、結果こそが全てであると叩き込まれた環境で、出来ない自分を完全なる落ちこぼれと自ら証明してしまっていた。当初の高い志や気概も萎縮してしまい、自他ともに認めるぶら下がり赤字社員に成り下がっていった。「営業ができれば何でもできる」「エリート営業マンは人間的にもエリート」社内では優秀者は賛美の対象として称えられていたが要するに全く逆の立場である自分は現時点で、そしてこれから先歩む人生でさえ確定的に落ちこぼれで無能者なんだとすり込まれていった。

社会に出てすぐに厳しすぎる現実を突きつけられた私の社会人生活は“苦”そのものであった。色々な土地へ行ったり社内恋愛をしたりという正の側面もあったが、やはり仕事が出来ないという立場はもともと根拠は無いが自信やプライドがあった私にとって、精神的にも肉体的にも長きに渡って辛酸を舐める辛い時間であった。社内での人間関係はとても円満であり上司全員を心から尊敬していた。しかしながら成績を全く抜きにして人間性を客観的に評価されることも無いはずである。明々白々に成績開示される現場で共に働いていれば、誰彼は仕事が出来ないヤツとベクトルが含まれた印象になることは避けられない。現に私も成績優秀者とそうでない方々の尊敬の度合いはどうしても偏ってしまうし接し方の緊張感がまるで違うものだった。

新入社員とはいえ、血気盛んであった入社時のはつらつとした勢いは全く消え失せて、仕事に対しての使命感や責任感も無くなり、自らその境遇から脱する術も考え付かずにもがき苦しんでいた。蚤は蓋をした箱に閉じ込められると、最初は飛び跳ねてそこから出ようと試みるのだがそのうちここからは出られないと分かると飛び跳ねるのを諦めてしまうらしい、そして蓋を開けてもそこから出ようとしなくなるのだという。客観的に見れば22,3歳程度のまだ何ら悲観する必要の無い年齢であったにも関わらず私はその蚤のような「どうせ自分は・・・」そんな状況に陥っていたように思える。